八幡市民の生活を豊かにしていきます、
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八幡市民が主役になるまちへ!

ご挨拶

ご挨拶-GREETING-

おがた けんご挨拶
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ご挨拶

私は、挑戦します!
八幡市の未来が輝き、市民が主役になって幸せを感じられるまちにするため、
全力で走ります!

おがた けん

ごあいさつ(決意)

私は社会人になるまでの19年間を八幡市で過ごしました。大学卒業後すぐ、元八幡市長である菱田嘉明衆議院議員のもとに秘書として政治の世界に入ってから、京都府議会議員当選後も、菱田先生に指導を受けながら「人の心にうるおいがあり、街の姿に誇りを持てる」地域づくりを目指してきました。住民の方と協働して、綴喜厚生保護サポートセンター(保護司会)の京都府施設への設置(法務省所管団体が府の施設を使用)や、みのやま病院新設時の病床数確保など、行政や地域の垣根を越えて活動し、市民の方と課題を解決することに喜びを感じてきました。一方で、閉鎖的な自治体の体質、市民と寄り添わない政治の距離感に疑問を抱き2019年に京田辺市長選へ挑戦しました。落選後も、政治で変えられないことは自らの手でと考え、青年経営者の集まりである(一社)山城青年会議所で子供たちへ農業体験を行うなどの地域活動(2020年理事長)、地域コミュニティ再生のため、地元の区長として住民と行政の橋渡しを行いました(要望事項取りまとめや地域祭りの再開等)。また、中小企業経営者の新しいチャレンジを支援するコンサルタント事業は仕事として取り組み、順調に成果を上げているところです。
今、八幡市では、現職市長の突然の辞職表明により混乱が広がっています。住民の方からの訴えでは、その原因は、「古い政治体質によるしがらみから、真に市民に開かれた政治とはかけ離れており、八幡市の未来に希望が持てない」といった現在の社会情勢からは、信じがたい内容でした。私は、社会に出るまで育ってきた八幡市が大好きです。家族・友人が暮らすこのまちを市民の手に取り戻すため、八幡市政の大転換と改革を推し進めたいと決意いたしました。この想いを実現するためには、日本維新の会がかかげる「身を切る改革」「しがらみのない政治」といった政策が必要不可欠です。志を同じくする皆様と協力しながら、八幡市刷新を成し遂げる決意です。
おがた けん/尾形 賢

プロフィール

尾形 賢(おがた けん)

昭和55年10月27日生 42歳
八幡市八幡生

おがた けん

【学歴】
八幡市立八幡小学校卒業
京田辺市立大住中学校卒業
私立洛南高等学校卒業
大阪市立大学(現大阪公立大学)工学部卒業

【職歴】
衆議院議員秘書
京都府議会議員 3期当選
会社経営者

【趣味】
将棋 占い

おがた けんの軌跡

こんにちは。日本維新の会 八幡市政対策委員長の おがた けんです。
私は、八幡市八幡で、昭和55年10月に誕生しました。父は、八幡市で電気工事業を創業し、自宅兼事務所だった家では、当時、数名で現場に出ながら営業をする忙しい毎日でした。母は、八幡市の公立保育園の保育士をしており、引退まで保育の現場で働いていました。今でも当時担任した生徒や保護者と交流関係があります。私は、そうした共働きの家庭でしたので、0歳から、公立さつき保育園で過ごしながら、送り迎えや病気をしたときなどは、近所にお住いの兄の同級生のお母さんに預かってもらっていて、今でも母親のように接してくれています。

日本維新の会

私が政界に入ったきっかけは、菱田嘉明衆議院議員(元八幡市長)のもとで秘書として勤めさせていただいてからですが、菱田先生との出会いはもう少し以前になります。
私の父は20代の若くして八幡市で電気工事業を創業したのですが、当時は知り合いも少なく大変苦労していました。そのような中、ご近所にお住まいで父の仕事や家族を助けていただいた叶保夫元八幡市議会議員から菱田先生をご紹介いただき、お付き合いが始まりました。父は、菱田先生の各種選挙や、叶元市議の選挙を支援しながら、八幡市のまちづくりに関心を持つようになり、自分でも地域づくりに何か協力できないかと、「NPO法人やわたまちおこしの会」を発足し、『光の祭典 イルミネーション』を開催したり、「八幡市防火推進連絡会」の役員を長年務めるなど、地域活動にも積極的に関わるようになりました。
私は、学生時分に父からの依頼で、菱田先生の後援会事業の司会をさせていただいたり、お手伝いさせていただくことがあったのですが、大学4回生の時に、普通に就職することに疑問を持っていた私は、父と相談し、菱田衆議院議員の事務所へ秘書として働かせていただくこととなりました。
後援会での仕事は、八幡市月夜田にあった事務所。国会議員秘書の仕事は宇治市大久保の事務所で行っていて、私は2つの事務所を掛け持ちして勤務していました。
秘書業務中、ふいに、菱田先生から「君は、政治活動をするとしたら、どの地域で活動したい?」と聞かれました。私は、「できるのであれば、生まれ育った八幡市か、友人の多い京田辺市で活動したいです。」と答えました。特にそれ以上のことはなかったのですが、とても印象に残っているやりとりです。
菱田事務所では、社会人経験のない私を荻原豊久秘書(前京都府議)が熱心に指導してくださり、青年の集いの開催など精一杯頑張ったのですが、支援者の皆様の奮闘むなしく、落選することとなり、菱田先生の政治家としての歩みを止めてしまうこととなりました。

その後私は、奈良県1区の森岡正宏衆議院議員(厚生労働大臣政務官)のもとで秘書として働くことになります。<森岡先生も私の政治活動に大きな影響を与えていただいた方です。詳細はまた。>
奈良での勤務を終えて、京都へ戻らなければいけなくなった際に、菱田先生から連絡があり、「京田辺市綴喜郡選挙区で、京都府議会議員の候補者を選考するようだが、挑戦してみてはどうか?」とのお話でした。当時、八幡市は、明田功府議(元八幡市長)がおられ、京田辺市は前回選挙で自民党候補が民主党候補に敗れたため、議席を失っていました。私は家族とも相談の上、次期府議戦に臨むため、京都6区へ戻ることなりました。

2007年の統一地方選挙では、京田辺市綴喜郡選挙の定数が2に増員されたことから、私も無事初当選をさせていただき、3期12年間京都府議会議員として勤めさせていただきました。
菱田先生も、政界引退後は京田辺市でお住まいでしたので、政治活動はもちろんのと、青年会議所での活動や家族のことまで公私にわたってご指導いただいてきました。
4年前に私が落選した後にも、励ましていただき、病を押して、周辺の皆様に私の再起へ向けたお声がけを最後までしていただきました。
私の自宅の神棚には、3年前に菱田先生が他界された際にご家族より頂戴した、八幡市長時代の記章を飾らせていただいています。頂戴した当時は、八幡市長選挙に挑戦することは想定していませんでしたが、今回、ふるさと八幡市のために立ち上がるきっかけを与えていただいたように思えてなりません。

私の政治の師の一人である、菱田嘉明元市長と私、私の家族とのことを中心に書かせていただきましたが、私には政治の師が他にも複数おられます。
多くの方に支えられて、今の私がありますし、頂戴したご恩を少しでも、ふるさとの町に住む皆様に恩返ししたいと決意を新たに頑張ります。
おがた けん/尾形 賢